消す番組と残す番組を選別するために、けっこう前に録画した音楽番組とかを観てたんですが。
そこではThe Pillowsが何曲か演奏していて、しばらく魅入ってしまった。
めっちゃかっこいい。
年齢を感じさせないアグレッシブな姿勢、まだまだ絶好調といったかんじである。
熱狂的にではないにしろ、ぼくはThe Pillowsがけっこう好きだったりします。
なぜならば。
かんたんに言うと、それは彼らが、ロックがロックであることの必然性が失われ、もはや様式でしかないことが自明になっている時代に、でもなお自分たちがロックという様式を使うことに対して自覚的だからです。
もっとも、実際に「そうなんでしょ?」と彼らに尋ねたところで、「んなこと考えてねーよ」と一笑にふされるに違いない。他の古今東西のロックバンドに尋ねても同じことでしょう。それはつまり彼らが「ロックをやっている」からです。
もはや「ロックをやる」にはそのような屈折を経由するしかない。
とはいえ、最近では必ずしもそうは言えなくなってきていて、特に若い世代(ぼくと同世代かちょっと上)ではすごくベタにロック(という様式)をやっている人もかなりいたりする。
彼らはそもそも「ロックが死んだ」ことすら知らない。
というか、フツーに生きてきたなら自分の生まれる前のことなんて当然知る由もないのだから、ある種「歴史の忘却」みたいなことが起こるのは必然といえる。これはしょうがないことなのです。
たとえば、彼らが「忘却」してることに対してしばしば上の世代が非難を浴びせたりするわけだけど、はっきり言ってそんな説教じみたことしてもどうにもならないと思います。
上の世代が「歴史」を「忘却」していないのは、単に自分たちがその時代を生きてきたということでしかないのだから(わしらの時代は……論)。
そんな素朴なノスタルジーにしか立脚しない説教にはだいたいにおいてアクチュアリテイがないし、なんのためにやるのか疑問です。なーにをやっておるのか。
もっともこれはロックに限った話じゃない。
と、腹を立てたりもするけど、まぁ最近はそういう世代間の対立もあったほうが議論のきっかけにはなるわけだし必要なのかな、とも思っています。
と、書いた矢先に、いやいや自分は若いのだからもっと闘争的であるべきだ、とも思ったりして、天使と悪魔的なものがバトり出す。
このままどっちつかずでいくと、たぶん島田雅彦みたいな方向にいきかねない……(だからこそぼくは島田雅彦の小説に惹かれるんだろうな)。
「歴史の忘却」に話を戻す。
ここで言う「歴史」をぼくは「人生経験とパッケージになった<現在>の連続」という限定した意味で使ったわけだけど(小文字の歴史)、当然そうじゃない歴史もある。
何年に何が起こったとか、誰が何をしたとか、いわゆる我々が普段使っている意味での歴史です(大文字の歴史)。
(実は大文字の歴史も事実と解釈というふたつの要素で構成されているのですが、ややこしいのでここでは触れないでおく。)
大文字の歴史を忘却するということは、公共にとってマイナスである。
これは自明とされていることです。
たとえば、日本人の多くが先の戦争を忘れてはいけないと考えている。
だからこそ、戦後60年以上を経た今でも終戦記念日には戦争の特集番組が組まれたりもするわけです。
ぼくは大学で歴史を学んでたので特別に関心が強いのですが、こと創作においても歴史の問題は大きなものとして横たわっている。
たとえば、作品上で戦争を扱う、前時代を舞台にするとなったら、必然的に歴史に対する倫理的態度を問われざるをえない。作品そのものが、ともすれば作者の歴史観やイシューの表れであると判断されかねない。少なくとも、一般的にはそう考えられている。
これはとてもリスキーなことです。
でも、最近のアニメとかを観ていると、そんな逡巡がとるにたらないものに思えてきます。
あの世界では歴史が忘却されているどころか歴史の意味そのものが変質してるといったかんじで、なんかもーすげーことになってるw
もはや歴史が歴史として機能していない。
『夏のあらし!』や『大正野球娘。』で、それは確信になりました。
できれば今後のエントリで、そこらへんの話をちょっとしてみようと思います。
ではまた/
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